消灯時間です

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今日のアドリブ 気ままに書きます

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「翔ぶが如く 二」司馬遼太郎

以前挫折してしまった第二巻に再び挑戦。今回はなんとか最後まで読み通したが、前巻にも増して内容がボリューミーになっている。とにかく軸になる話を肉付けしたり、その背景を説明したりするサイドストーリーみたいなのがものすごいのだ。そして登場人物・人名の多さが半端ない。ムラヴィヨフなんて名前、久々に見た。世界史の教科書以来な気がする。
なかなか大変だったが、でも改めて読んでみるとこの二巻はドラマティックな展開で、とくに中盤以降ぐらいからは引き込まれるようだった。終盤の西郷はずしのくだりは、まるでいじめのようで読んでいて胸が痛くなった。

やはり巧みな政治というものは情あるタヌキにしかつとまらないらしいことがよくよくわかりました。

頭の体操と備忘録をかねてまとめ(長くなりました)

俗に「征韓」とか「征韓論」と言うが、西郷自体はこの言葉を一度も使ったことがない。西郷は、居留民保護を口実に朝鮮への即時出兵を主張する板垣退助に強く反対。先ずは全権大使を朝鮮に送り、対話すべきだと主張した。「征韓」ではなく「遣韓」である。そしてその任務をぜひ自分にやらせてほしいと、西郷は異常なまでの熱意でときの太政大臣(首相)・三条実美にせまった。西郷の要望に難色を示す三条だったが、粘る西郷に抗いきれず、外遊組が留守のなか、閣議の席上でついに西郷の朝鮮派遣を認める発言をしてしまう。事実上の閣議決定である(1873(明治6)年8月17日)。しかしここにきて珍しく機転を利かせた(側近の入れ知恵とも)三条は、西郷遣韓の件を明治帝へ奏上する際、「ただし最終決定は右大臣・岩倉具視の帰国後に」と付け加え、条件付きのかたちでの勅許を得ることに成功する。窮地における三条のまたしても時間稼ぎのための苦肉の策であった。しかしそうとは知らない西郷は、条件付きとはいえ、もはや自身の渡韓は揺るがないものと思い込み、嬉々として朝鮮行きの支度にいそしんでいた。

同じころ、大久保利通は過熱する征韓論争を尻目に、騒動に巻き込まれることを嫌い、引き続き職務には戻らぬまま、故意に東京を離れ旅に出ていた。政治というものは時間とともに変化する。大久保は、時が経てばいまに桐野利秋ら過激な征韓派が勝手に自滅してくれるか、もしくは今は西郷の威厳を前に大人しくしている内治優先論者たちがそのうちしびれをきらして声を上げ、結集し、征韓派に対抗できるだけの一大勢力ができあがるか、そのときが来るのをじっと待っているのだった。とにかく今自分がいたずらに表に出ていけば、盟友・西郷との衝突は免れない。大久保はそれだけは避けたかった。一方、新政府の最高幹部の一人である木戸孝允も、外遊から戻った後は、休養を理由に政治の現場に戻ることを辞退し続けていた。そんな中、西郷の朝鮮行きをなんとか阻止せねばならないとひそかに策動している者がいた。伊藤博文である。伊藤は当初、征韓論騒ぎは薩摩人同士の問題とみて、自分たち余所者が関わるべきことではないと思っていたが、いまや国を揺るがしかねないまでの騒動に発展しているのを見てさすがに看過できなくなった。「このまま征韓論が国策となれば日本が滅ぶ」そう危機感を強めた伊藤は、日頃から酒を酌み交わしながら議論を興じ合う間柄の井上馨大隈重信らとともに、人知れず征韓論つぶしに動き始める。この頃の伊藤らは政治的にまだ目立った存在ではなく、西郷をはじめその周囲からも書生上がりの小僧ぐらいにしか思われておらず、全く注意の外にあった。しかしこの三人は稀代ともいえる鋭い政治感覚と行動力を持つなかなかの傑物たちだったのだ。まさか彼らが征韓論つぶしに動いていようとは。誰も夢にも思っていなかった。

伊藤の作戦は「大久保と木戸に手を組ませ、西郷とその一派にあたらせる」というものだった。しかし、先の外遊以来、大久保と木戸との関係はすっかりこじれてしまっている。そういう自分も、外遊中大久保と友好的にしていたことで木戸の不興を買い、往来を絶たれてしまっていた。そこで伊藤は先ず自分から木戸に歩み寄り、壊れかけていた仲を修復することから始めた。木戸の機嫌が直り、従来の関係を取り戻せた伊藤は、今度は体調を崩して自宅にこもりがちの木戸のもとに、森有礼のような木戸が好みそうな開明的な人物や、はたまた英国公使ハリー・パークスとその書記、アーネスト・サトウといった外国の要人までをも送り込み、征韓論がいかに日本にとって不利なものであるかという話をさせた。征韓論つぶしに向け、木戸の覚悟を固めさせるためである。

次に伊藤は、外遊から戻ったばかりの右大臣・岩倉具視の元へ通い、岩倉の留守中に国が容易ならざる事態に陥ってしまったことを告げ、打開策を練るまですぐには職務に復帰しないよう頼み込んだ。西郷が岩倉の帰国を手ぐすねひいて待っており、閣議さえ開かれればすぐにでも朝鮮に渡る勢いであるという情報を得ていたからだ。事の深刻さを理解した岩倉は、伊藤の助言をもとに、太政大臣・三条へ養父の服喪を理由に50日間の休暇願を出した。ただしこれは西郷の怒りを恐れた三条からの頼みで、最終的に7日間の休暇に大幅短縮されている。(岩倉の帰国:1873(明治6)年9月13日、岩倉の休暇期間:同年9月23日~30日)

征韓派に対抗するためには是が非でも大久保と木戸の手を結ばせなければならないが、ここで一つ問題が持ち上がる。大久保も木戸も政府の最高官である参議の職についていないということである。参議でなければ閣議には出席できない。閣議に出席できなければ西郷の征韓論を破ることはできないのだ。西郷に対抗できるのは大久保しかいない。「なんとしても大久保さんに参議になってもらわねば」伊藤は岩倉と三条にも協力を仰ぎ、大久保の説得に動く。大久保の説得には彼と関係の深い岩倉が中心になってあたることになった。しかし岩倉がいくら言葉をつくして頼んでも大久保は頑として首を縦に振らない。大久保が参議になりたがらないのは、新政府に不満を抱く旧主・島津久光への配慮(これ以上久光の怒りを買いたくなかった)が主な理由だったが、それに加えて心のどこかに自分が参議になれば西郷との血みどろの戦いは避けられないという思いがあったからだった。さらに大久保は、二言目には「木戸先生がおられましょう」といった。その木戸の説得には主に伊藤があたった。しかし木戸も参議就任の話を決して受けようとしない。そして木戸もまた「大久保氏こそ参議になるべき」と言い張るのだった。大久保は木戸を立てろといい、木戸は大久保を立てろと言う。事態は一向に進展しないが伊藤はあきらめなかった。彼はこの頃、二人を口説き落とせる自信を持ち始めていた。

1873(明治6)年9月30日、危険だと不安がる伊藤をよそに、岩倉は単身西郷を訪ねる。帰国の挨拶を口実に西郷の心中を探るのが目的であった。しかし西郷は岩倉の長旅の疲れを労うどころか、とっくに帰国しているにもかかわらずなかなか閣議を開こうとしない岩倉を職務怠慢だと頭ごなしに強くなじり、さらには「あなたのような大臣や参議がいることはこの国の不幸だ」とまで言い放った。その迫力たるや凄まじいもので、岩倉は恐怖を覚え早々に退去せざるを得ないほどだった。そこにはかつて世を変えるべくともに力を合わせて戦った頃の、いかにも泰然自若とした西郷の姿はなかった。「西郷は変わった」岩倉は長年の政友であった西郷を見限った。

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