消灯時間です

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「翔ぶが如く 三」司馬遼太郎

第三巻。語られるのは「征韓論」をめぐって開かれる明治6年10月の廟議から、明治7年初頭の警視庁創立、岩倉具視の暗殺未遂事件あたりまで。前巻、最後の最後で西郷を裏切り、征韓派から非征韓派にまわっていた板垣(と副島)でしたが、その後どうなるかと思いきや、案外しれっと征韓派に戻っていたのでずっこけそうになりました。
前半は比較的読みやすく感じられましたが、中盤ぐらいから、司馬先生お得意の雑談、挿話が多くなる印象で、読み進むには少々難儀しました。
全巻読破まであと7巻・・・。道のりは長い・・・。

以下、征韓論争のくだりを中心にざっとまとめ

明治6年10月14日、いよいよ廟議が開かれた。出席者は太政大臣・三条、右大臣・岩倉の他、参議8名(西郷、副島、大久保、大木、江藤、板垣、大隈、後藤 ※以上年齢順、本の記載どおり)。木戸は病気を理由に欠席。会議では西郷と大久保が朝鮮派遣の是非をめぐって大議論を交わすが、決着がつかず議事は翌15日に持ち越されることになる。西郷は「自身の意見が認められなければ職を辞す」と発言。これを受け、板垣、副島の両名が「もし辞職するならば我々もそれに続く」と内々に西郷に申し出るが「いらぬ誤解を招きかねない」と固辞される。さらに西郷は、言うべきことは言ったので明日の会議には出ないと宣言する。

15日、第2回目廟議。木戸および西郷欠席。会議では名うての論客である江藤を筆頭に板垣、副島ら征韓派の面々が強硬に西郷支持の論説を展開。これに大久保が一歩もひかず冷やかな態度で応戦した。しかし、前日の会議で西郷が辞職をちらつかせたことで、西郷の背後勢力の暴発を恐れた三条と岩倉が、大久保との約束(「何があっても方針を変えない」)を破り、最終的に西郷の朝鮮派遣を認める決断を下す。
同日夜、伊藤(博文)が岩倉宅を訪問。この期に及んでも伊藤はまだ征韓論阻止の希望を失っていなかった。伊藤は岩倉に、明日は登庁せぬよう進言する。

16日、伊藤、大隈が岩倉邸を訪問。話題は征韓派の江藤の動向についてなど。一方、大久保はこの日、非征韓派の黒田清隆西郷従道(隆盛の弟)の来訪を受けた他、午後は外出し、伊地知正治宅で囲碁打ちに興じるなどして過ごしている。

17日朝、大久保が三条に辞表提出。さらに追い打ちをかけるように岩倉までが辞意を表明した。驚いた三条は急ぎ岩倉を訪ねるが、翻意させることはできなかった。三条は孤立してしまった。
同日午後、再び廟議。すでに辞意を表明している大久保、岩倉の姿はなく、この日出席しているのは西郷をはじめとする征韓派の面々ばかりだった。西郷は三条に対し、渡韓の件についてただちに勅裁を得るよう詰め寄ったが、三条も「せめて一日だけ猶予を」と負けていない。双方相譲らずの状態が続いたが、見かねた後藤が間に入り、ついに西郷が折れることになった。結果、このとき三条に一日猶予を与えてしまったことが皮肉にも後の西郷の運命を決定づけることになる。
夜、岩倉の口車に乗せられた三条は、西郷を自邸に呼び、渡韓を断念するよう再び説得を試みるがあえなく失敗。このことで更に悩みを深くした三条は、極度の心労から翌明け方倒れ、意識不明となる。

18~19日、「三条発病」に際し、元々三条を外しての岩倉体制を考えていた伊藤が、これを好機とばかりに暗躍を開始する。まずは岩倉に自らの構想を伝え承諾を得た伊藤は、「もはや再起不能」と印象づけるために三条の病状をわざと誇大して触れ回った。実際、幕末期から三条と関わりが深かった木戸はこの知らせに大いに驚き、三条公をここまで追い詰めたのはあの無謀な暴論のせいだと征韓論に対する怒りを新たにした。岩倉が出る以上、大久保にも出馬してもらわねばならない。伊藤は木戸から直接説得してもらうことで、大久保を再び表に引き出すことに成功。そこから先は大久保の仕事となった。まずは岩倉の太政大臣代理就任を法的に確定させること、それには天皇を引き出さなければならない。都合が良いことに宮中には薩摩人が多かった。なかに反征韓の立場をとる吉井友実という人物がおり、大久保はこの人脈を巧みに利用した。

20日明治天皇が三条、岩倉両邸を訪問。この日、岩倉に正式に太政大臣代理就任の勅命が下る。

21日朝、西郷、副島から、岩倉に太政大臣代理就任の勅命が下ったことを知らされる。
同日、大久保派最初の作戦会議。出席者は大久保、伊藤の他、西郷従道黒田清隆、そして岩倉の太政大臣代理就任に一役買った宮内大丞の吉井友実
作戦については「もはや閣議を開く必要はなく岩倉の責任において決めてもらう。岩倉が参内して賛成派、反対派の両論を奏上し、そのうえで岩倉自身の意見を述べてもらい、一挙に決着をつける方向にもっていく」とする伊藤の案が採用されることになった。しかし大久保も伊藤も、いざとなればまた岩倉が態度を変えるのではないかと不安を隠さなかった。

22日、副島の提案で岩倉説得のため、征韓派の面々(西郷、副島、江藤、板垣)が岩倉邸に赴く。一団は岩倉に西郷渡韓の件をただちに上奏するよう強くせまったが、岩倉は「国家の滅亡が危惧されることゆえ、渡韓の件と併せて中止案も上奏する。そのうえで聖断を乞う」と切り返した。さらに、いずれの説を主とするのかという問いには「わが説(渡韓中止)だ」と言い切った。西郷たちはなかば脅迫まがいの態度で岩倉に揺さぶりをかけ続けたが、さすがの岩倉も今回ばかりは頑として動かなかった。説得は失敗に終わる。西郷は敗北した。

23日、予定されていた廟議は中止。岩倉、参内し経過を奏上。西郷は東京を去ることにし、この日の朝、家の使用人たちに「向島へ行く。行き先は口外しないように」とだけ言い残すと、わずかな供だけをつれ家を出た。東京を退去することは側近の桐野(利秋)にすら打ち明けなかったが、ただひとり、大久保のみに打ち明けた。西郷はこの日、向島へ向かう途中、暇乞いのため大久保の家を訪れている。「後の事(国事)は頼む」という西郷に、大久保は「お前さんはいつもこうだ」と腹立ちを隠さなかった。結局この日が二人の今生の別れとなった。

その後西郷は27日まで向島の隠れ家に滞在。途中、反征韓派ながら、心の中では西郷に深い恩義を抱き続けていた黒田や、弟の従道らがわざわざ居場所を探しだし会いにやってきたが、二人ともまともに口をきいてもらえず、満足に別れも告げられないままその場を辞去している。
28日、西郷は東京を発った。

その後の主な人物の動向

征韓派の面々
西郷の辞職につづき、板垣、江藤、副島が辞表を出して一斉下野。
岩倉の説得に失敗した際、西郷の言葉の節々に帰国の決意を感じた板垣はつい感傷的になって「私の友情は永久のもの」という意味の言葉を西郷にかけるが、「私は君の助けを借りる希望はもっていない。私のことは忘れてくれていい」とにべもない言葉を返される。「西郷の慢心はここまで至ったか、とこのとき思った」と板垣は終生語った。

桐野利秋
陸軍少尉。西郷辞職の事実を知るや、誰に相談することもなくその日のうちに辞表を提出。その後唐突に妾宅に姿を現したかと思うと有金と形見だけを置いていき、さっそうと東京を離れていった。

篠原国幹
近衛の司令長官。元来政治的な人間ではなく、征韓論争とも直接関わりはなかったが、かつてともに戦火をくぐりぬけたこともある西郷に並々ならぬ思いを持っていた。人品に優れ、まわりからの信望も厚く、よもや篠原が東京を離れることはあるまいと楽観視されていたが、西郷下野にともない突如辞意を表明して周りを驚かせる。黒田が必死に説得するも応じず、ついに大久保が動いて勅命を利用してまで引き留めにかかる事態に発展したが、命に従うことなく姿を消した。西郷の下野は、篠原をはじめとする近衛将校の大量辞職につながり、政府に大打撃を与えることになった。

山縣有朋
陸軍卿。征韓論争に巻き込まれることを嫌ってあえて長い地方出張に出ていたが、帰京するなり今度は西郷下野にともなう薩摩系軍人の大量辞職問題に直面する。しかしこの一大事にもかかわらず、山縣は「(軍人をやめて)文官になりたい」と言い出し、近衛軍の立て直しのことで相談に来ていた木戸を呆れさせた。前々から参議になりたくて仕方がなかった山縣は、征韓派の相次ぐ辞職で思いがけなく空いた参議の席に何とかすべり込もうと、木戸を相手にさまざま小細工を弄しようとするが、逆に木戸の不興を買うことになり、思い通りに事は運ばなかった。

川路利良
警察官僚。かつての大恩人・西郷の下野にもいっさい動じることなく、「郷党のことは私事。国家の仕事をおろそかにすることはできない」と、警察制度確立のため自らの職務に邁進した。いずれ西郷のもとに奔るのではと心配する者には「自分はたとえ郷党の者に刺されようとも、国に帰ることはない」と言い切った。明治7年、警視庁創設にともない初代大警視就任。

三条実美
病状が回復し、西郷下野後再び太政大臣に就任。本人は病弱を理由にたびたび辞職しようとしたが、岩倉と大久保の結託を危惧する木戸がそれを許さなかった。
明治6年暮れ、一部の警察官僚のあいだで起きた「西郷呼び戻し運動」に、持ち前の純真さでもって無邪気に同調する動きを見せ、政府内に再び騒ぎを巻き起こした。

岩倉具視
明治7年1月14日夜、暗殺未遂事件に見舞われる。この事件をきっかけに、元々川路のもとで創設の準備が進められていた「警視庁」が大急ぎで発足することになった。明治16年没。死の間際には「西郷さんをあのとき朝鮮に行かせておけばよかった」と後悔めいたことをもらしたこともあった。

(#19「翔ぶが如く(三)」(司馬遼太郎)finish reading 2018/10/17 )