消灯時間です

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「翔ぶが如く 一」司馬遼太郎

以前読み始めてみたものの、意外に難しくて2巻目であえなくリタイアしていたのだが、今、大河ドラマの「西郷どん」にはまっている勢いでもう一度読み始めてみた。
なんだろう。前より面白く読める。ただ相変わらずものすごい勢いで、脳のブドウ糖が減っていっているような気がするが。

なんとなくまとめ

明治5年(1872年)、司法省の役人であった薩摩出身の川路利良は、欧州の警察制度を学ぶため、視察団の一員としてヨーロッパに派遣される。フランスで現地の優れた警察制度を目の当たりにした彼は、国内の警察制度改革の必要性を改めて痛感する。

帰国後川路は、自身がまとめた警察制度改革に関する意見書を持って、直属の上司である司法卿・江藤新平肥前出身)のもとを訪ねる。内容は「内務省新設と警察組織の内務省への移管」であったが、江藤からは色よい返事はもらえず、次に同郷の大久保利通のもとを訪ね意見書をみせる。実はこの頃、大久保は内務省設立に向けて着々と準備を進めているところだった。彼はめったに即答しないことで有名だったが、川路の案をその場で快諾。早急に事を進めるよう指示する。この流れで、早くも明治7年(1874年)には、川路を大警視(今の警視総監)とした警視庁が創設されることになる。

同じ頃、西郷隆盛(薩摩出身)は、東京・日本橋の旧武家屋敷に住み、とても政府の要人とは思えない質素なくらしを送っていた。川路は帰国の挨拶まわりで一番最後に西郷のもとを訪れる。川路にとって西郷は、自分を世に送り出してくれた大恩人であった。折しも巷では征韓論争が吹き荒れ、西郷はその主導者のように思われていたが、川路は西郷が、過激な征韓論派である桐野利秋(薩摩出身)ら取り巻き連中にかつがれているだけなのではないかと考えたりもした。川路は征韓論には反対だった。川路に限らず、外遊を経験し、欧州諸国と日本の国力の差を直接見せつけられた者はみな征韓論に反対した。「征韓」は下手すれば朝鮮のみならず欧米列強までを敵に回す可能性があり、そうなれば今の日本ではとても太刀打ちできないだろうことを肌身で感じたからだ。特に反対派の筆頭である大久保利通が、このままではかつての盟友・西郷をも見限らねばなるまいと非情な覚悟を決めていることも川路は知っていた。川路は西郷が好きだった。それだけに西郷のそばに、いまや桐野程度のレベルの人物しかいないことを憂えた。川路は桐野のことをあまり良く思っておらず、桐野もまた川路のことを虫が好かないやつと思っているようだった。桐野は元々「人斬り半次郎」と恐れられた有名な人斬りだったが、川路はこの日、西郷宅で同席していた桐野の殺気がなんとなく自分に向けられているような感覚に陥り、今後桐野とは距離を置くことを心に決めた。それによって西郷と袂を分かつことになり、恩知らずと非難される日が来るかもしれないが、川路はそれもやむをえまいと覚悟した。

征韓論が正式に閣議にかけられたのは、明治6年(1873年)6月のこと。閣議に出席したのは、西郷隆盛、土佐出身の板垣退助肥前出身の大隈重信ら計6人の参議と、議長である太政大臣三条実美(公家出身)。もっともこの時、閣僚の半数は外遊のため国内不在で、征韓論は留守組(留守内閣)の面々のみで話し合われようとしていた。実は留守組と外遊組の間には「外遊組が戻るまでは決して国家の重要課題を決しないこと」という約束事があったのだが、この約束を反故にして留守組が勝手に征韓論を決める動きに出ていたことを知り、外遊組の大久保利通は大いに憤った。大久保は実は5月にすでに単身帰国していたのだが、多勢に無勢と考えた彼は、静養中と称して家にこもり、同じく反征韓論派である岩倉具視ら他の外遊組が帰ってくるまで時を稼ぐ「沈黙作戦」に打って出る。このとき留守組の動向を大久保に知らせていたのが大隈重信だった。大隈は、大久保の外遊中から彼のスパイとして留守組に潜り込み、西郷ら征韓論派連中の暴走を防ぐブレーキ役を任されていた。当初大久保は大隈を嫌っていたが、それに気づいて必死に自分に取り入ろうとしてくる大隈に、かつて藩主代行の島津久光に取り入るべくあの手この手で努力していた自分の姿を重ね、使える人材として重用するようになっていた。

そのころ、外遊組と留守組との板挟みになってすっかりまいってしまっていたのが、太政大臣三条実美だった。西郷にしてみれば、反征韓論派の岩倉や大久保が居ぬ間になんとか三条を懐柔しておく必要があったし、かつて百戦錬磨の裏工作の達人だった西郷にとればそんなことはいとも容易いことであったはずなのだが、西郷はなぜかそうしようとしなかった。このころの西郷の政治スタイルは、かつての黒い仕事ぶりがウソのように、愚直で誠実なものに変貌をとげていた。三条は西郷の心を理解しつつも、それ以上に岩倉や大久保の意向を気にかけた。西郷からはたびたび評決の催促が届いていたが、三条はのらりくらりとこれをかわし、こちらもまた時を稼いでいた。

同じころ、外遊の地にあった長州出身の木戸孝允は、外遊中行動をともにした大久保利通や、かつて兄弟分であった伊藤博文(長州出身)とも全く反りが合わなくなり、まわりの制止もきかず自ら別行動をとって孤独のうちに帰国する。帰国した木戸は西郷への面会を希望する。元々、薩摩人嫌いの木戸は、実は西郷のことも維新前から大嫌いであった。薩長同盟が実現したのも、坂本龍馬土佐藩)の説得力によるものというよりは、長州藩滅亡の危機を救うためにはもはや他に選択肢がなかったからに過ぎなかった。西郷の家をたずねた木戸は征韓論をあきらめさせるべく説得するつもりだったが、終始朗らかで平身低頭な西郷の態度にかえって気後れし、言いたいこともろくに言えず帰ることになる。木戸はこの日、質素な住まいで健康に不安を抱えながら暮らしているらしい西郷を見て、はじめて好悪の情を離れ、なにか共感めいたものを感じる。木戸も西郷もどこか過去に生きているようなところがあった。帰路の途中、木戸は偶然、黒田清隆(薩摩出身)に行き会う。黒田は元々西郷に敬慕の念を抱いていたが、自身が外遊を経験してからはしだいに西郷に物足りなさを感じるようになり、国外情勢に明るい大久保の方に傾倒していった人物だった。このとき木戸は黒田から、彼が西郷の征韓論を潰したいと考えているらしいことをさりげなく聞かされる。

さて、川路利良はその後もたびたび西郷のもとを訪れていた。川路は、政府の要職につきながら、着替えの一枚ももたない質素な暮らしを貫き続けている西郷を見て、この生活ぶり自体が新政府に対する無言の批判なのではないかと不安をおぼえる。維新の夜明けはフタを開けてみれば、国民にとってけして歓迎されるものではなかった。新政府によるさまざまな改革によって、士族たちは既得権を奪われ、農民たちには重税と徴兵が課せられ、国内には不平不満が充満していた。川路は思いきって西郷に「乱はおこるでしょうか」とたずねてみる。西郷の答えは「おこらないようにすれば、おこらない」だった。西郷は、乱というのは方向性を失った活力であり、その活力をどこに向けさせるか方向づけするのが国家の役目だと考えているようだった。今、全国の不平士族は憤懣やるかたない思いをたぎらせており、その爆発寸前のエネルギーをどこかに放出してやらねばならない。それこその征韓の策なのだと西郷は考えているらしかった。そして「アジアのことは亡き島津斉彬公の御遺志でもあった」とも語った。実はこの川路の訪問は、大久保にそれとなく指示されてのことだった。川路は、西郷に乱を起こすつもりがあるかどうかを大久保に報告しなければならなかった。大久保は、西郷そのひとが乱をおこす可能性というよりむしろ、西郷というカリスマ的存在のもとに吸い寄せられるように集まってくるにちがいない無数の反乱分子のことを恐れていた。家に戻った川路は書斎にひきこもり、西郷が哀れで泣いた。

いやはや、男の人の人間関係というのは、女性以上に魑魅魍魎で複雑なのだなとしみじみ・・・。

(#12「翔ぶが如く 一」(司馬遼太郎)finish reading: 2018/6/10)