消灯時間です

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修学旅行の思い出

東北育ちの私のはじめての修学旅行先は北海道だった。小学6年生の時だ。私の通っていた小学校では長年、行き先は函館か札幌というのが慣例になっていて、上級生からも最後の夜は札幌の街でラーメンが食べれると聞かされていたので、みな楽しみにしていたし、私も未知なる食べ物「バターラーメン」を絶対に食して帰ると心に決めていたのだが、私たちの代からとつぜん行先が「登別温泉」に変わった。まるで老人会の旅行のような行き先にクラス中が色めきだったが、いざ行ってみれば楽しい旅だった。そのころまだ運航していた青函連絡船に乗って、野生のイルカの群れを見ながら津軽海峡を渡り、道内では昭和新山有珠山、地獄谷、洞爺湖などを見てまわった。昼間からひとっ風呂浴びれたりもして、まさに「湯けむり旅情サスペンス」といった風情の旅だった。小学生にしてはなかなかシブい旅だったと思う。登別の山の方にあるきれいな湖を見に行く途中でバスから目にした、廃校になってしまったという小学校の跡地の風景が、なんとなく幻影的で心に残っている。

中学の時は東京と日光へ行ったがあまりいい思い出がない。校内選りすぐりの鬼軍曹と鬼婆で構成されたような教師団に引率され、終始おかしな規則に縛られっぱなしの緊迫した旅行でまるで楽しくなかった。一番きつかったのが「旅行中の洗髪禁止」というルールで、今思えばあれは宿への配慮から生まれたルールだったのかもしれないが、テカテカ皮脂と日々戦うお年頃の思春期女子にとってはとっても理解に苦しむ、ある種拷問のような規則であった。相撲観戦やディズニーランド、上野動物園で人気爆発中だった子パンダのトントン見物など、それなりに盛りだくさんの行程だったが、頭皮の衛生状態が気になって正直、旅行どころではなかった。油断と過信と何より頭のかゆみから思わず禁を破ってしまう者も続出したが、百戦錬磨の鬼軍曹と鬼婆を侮るなかれ。そういう輩は即バレのあげく宿中引き回しの刑という厳しいお仕置きを受け、泣きながら全員の部屋を一つ一つ謝罪してまわっていた。おそらく教師たちにこっぴどくしぼられたうえに、行く部屋行く部屋で冷ややかな視線や言葉を浴びたのだろう。シャンプーの怨みは怖いのだ。普段はわりとイケイケ風の子たちがそのときばかりはまるで形無しといった様子で、私のクラスの部屋にまわって来る頃には、某国の「泣き屋」のような阿鼻叫喚の状態になっていて目も充てられなかった。あんな殺伐とした旅行は二度とごめんだ。

打って変わって高校の修学旅行は楽しかった。おかしなルールもない。5、6日間ぐらいの行程で、九州(長崎近辺)と京都・奈良を一挙にまわるという、なかなか大スペクタルな旅だった。高校の修学旅行といえば、真っ先に思い出すのがクラスの友人Aである。Aは普段はバリバリの東北弁の使い手だったが、これが初日に上りの新幹線に乗ったとたん、どういうわけか突然ぺらぺらと標準語をしゃべりだすようになった。何かのスイッチが入ってしまったらしい。が、ものすごい違和感があり、Aのなんちゃって東京弁が聴こえてくるたびに首筋のあたりがこそばゆくてしかたがなかった。旅は前半に九州をまわり、後半、奈良・京都をめぐるというコースだったが、気がつくとAのしゃべりは旅の終わりごろには関西弁になっていた。「それならもう買うたりましたわ」などと土産物屋の客引きを軽くいなしながら二年坂界隈を品を作って歩く、Aの粋な勇姿を今でも思い出す。ついには寝言まで関西弁になっていたらしく「なんかね。夢の中で何か買ってるらしくて『買うた買うた』言ってるのよ」と、Aと宿で同室だった仲の良い友人二人が、ヒーヒー笑いながら私の部屋に駆け込んできたこともあった。この旅行でのAの珍言動は今でも語り草になっている。悪く言えば感化されやすいのだろうが、よく言えば順応性が高いともいえる。ある種の才能だろう。

こうして振り返ってみると、修学旅行なんてずいぶん昔のことになってしまったのに、わりと色んなことをよく憶えているものだと我ながら感心。記憶力の方は今のところまだなんとかなりそうだ。

今週のお題「修学旅行の思い出」