消灯時間です

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ハユラコ

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cc0 image by Pixabay

先日の日経新聞の特集記事がおもしろかった。

世界には、その国の言語でしか表現できない言葉がさまざまあるらしく、そのいくつかが紹介されていた。

たとえば、日本語の「木漏れ日」。

木々の葉のすきまからこぼれおちる陽の光のこと。私たち日本人にとっては、とてもなじみ深い言葉だけれど、最近になってこの言葉をはじめて知ったというアイルランドの人は、息をのむほどに驚いたらしい。「英語なら詩でしか表現できないような情景なのに、たった一言で表す言葉があるなんて!」という賞賛の驚きだったようだ。記事を読んでいて、正直、そんなに驚くことに驚いてしまったが、たしかに、この手の奥深い表現は、日本語の得意とするところかもしれない。

詩的な情景といえば、スウェーデン語の「モーンガータ」(mångata)という言葉が美しいと思った。湖や海の水面に月の光がゆれるさまを、そう表現するらしい。まさに森と湖の国にふさわしいような、ロマンティックな言葉だ。

お国柄がうまく反映されているなと思わず感心してしまった言葉は他にもある。イタリア語の「ガッターラ」(gattara)は、「たくさんの猫を飼っている高齢の女性」という意味らしいのだが(さしずめ日本なら「猫おばさん」か)、もうその一言だけで、猫がのんびりと昼寝しているイタリアの路地裏の風景が見えてきそうだし、ドイツ語の「ビーアゼリーヒ」(bierselig)は、文字どおり「ビール」にちなんだ言葉で、おいしいビールを飲んで、心地よく酔って幸せな気分のことを意味するらしいのだが、白髭をたくわえた、一見屈強そうだけど実はジェントルなおじさんたちが、陽気にジョッキを傾けている光景が、目に浮かんでくるようだ。

他にも、イヌイット特有の愛情表現の言葉や、ラクダにちなんだアラビア語の独特な表現なども紹介されていたが、個人的に最も興味をそそられたのは、フィンランドの「ハユラコ」(hajuraco)という言葉だ。記事によると、フィンランド人というのは、シャイで、人と群れることをあまり好まない気質を持っているらしい。だから、行列を作る時も、互いのプライバシーを尊重しようとして、前の人とかなり間隔を空けて並ぶ。「ハユラコ」は、そんな「物理的に適切な対人距離」のことを示す言葉らしい。実際、記事には、2~3人分のスペースをあけてバス停に並ぶ人たちの写真が載せられていた。けして誇張ではなく、フィンランドではごくありふれた光景とのこと。私もわりと日頃から対人距離が気になる方なので、正直これはうらやましいと思った。そもそも人口の多い首都圏で暮らしていると、そんなわがままも言ってられないのだが、バス停や駅のホームでの行列はともかく、スーパーなどでのレジ待ちの行列はどうにも苦手である。ぴたっと至近距離で並んでくる人が意外に多い。時には、家族のごとく、財布の中身を覗き込まんばかりに寄り添われることもあり、これには面食らう。さすがにフィンランドとまでは言わないが、ある程度、節度ある「ハユラコ」は保ってほしいものである。

そんなわけで、ひさびさに食指が動くようなテーマの記事だったのだが、そういえば、東北で生まれ育った私は子どもの頃、「古小豆(ふるあずき)」と呼ばれていたことを思い出した。「古小豆」とは向こうの方言で、「なかなか寝ない子ども」、つまり宵っ張りの子どものことを言う。古くなった小豆は固くなり、煮ようとしてもなかなか煮えない。「煮えない」が、あちらのイントネーションで「寝ない」とよく似ていることから、ひっかけ言葉のようなかたちで生まれた表現らしい。調子に乗って夜ふかししていると、「まったくこの古小豆ときたら」という感じで、まわりの大人に呆れられたものだった。「三つ子の魂百まで」とはよく言ったもので、そんな私は今もってなお「古小豆」である。

言葉というのは本当におもしろい。